零れていったものを砂とするなら

Posted by – 2011年12月19日

 
零れていったものを砂とするなら、それを注いだペットボトルはどれくらいになるだろう。
今の今まで、失ったものが多すぎて、両手の指の隙間から零れていったものが
こんな風に今になって僕を酷く責め立てる。それを素直に享受しようとしている僕も
大概馬鹿なのかなって思うけど、軽くなんて見られないから仕方ないのかな。

先日日記に書いた、人の死だけでも、僕はどれくらいのそれを見てきたんだろう。
その度に、遺された者として憤りを感じていたはずなのに
僕も同じような事を何度もして、その時感じた憤りを何度だって忘れた。
若しも僕が死んだのなら、同じように憤りを感じてくれる人はいるのだろうか。
そんなもの居ないよ、って勝手に決め付けて、同じような事を何度も何度も。

もう失いたくなくて、それならいっそ自分を失ってしまった方が幾らかマシで。
二度と手のひらから零れて行って欲しくないから、それを見ない為に
自分の存在を無に還そうと思ってた。それがどれだけ短絡的で幼稚な考えかも分からず。

僕は、私は、零れてゆくそれを、これからも何度だって見なくちゃいけなかったとしても
自分を無かった事にするのだけは赦されない。
もういっそその方が楽だと思っても、その選択肢は最初から自分に与えちゃいけない。

数えたらキリがないけど、零れて行ったもの全てが
最初から無かった事になんてならないんだから。
こんなに、出会えた事に感謝しているのに、無かった事になんて、ならない。
それに気付いてから、僕の左腕に傷が増える事は少なくなった。
これも一生消えない証になるんだろう。これがある事で何度だって苦しむだろう。
でも、そうしたのは自分だから。責を負うのは自分なんだ。

僕を照らしてくれる光なんてない。
でも、それが一生かどうかなんて分からない。

だから、この手のひらから零れていったものを、失ったものを
最大限慈しみながら、僕は呼吸を繰り返す。

何度も感じていた憤りを、同じように誰かに与えるのだけはいけない。
全てを享受しよう。
 

Hello world!

Posted by – 2011年10月18日

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